若いうちにしかできないことをせよ
予備校も新入生入れ替えのシーズンである。
生徒たちの親の年齢であるわたしの毎年の最後の授業は、説教で終わる。
それは、自分の大学生時代を後悔しているから。
生活のために日夜アルバイトを掛け持ちし、空いている時間に大学に行って最低限の単位を最低限の成績でとって卒業してしまった経緯があるからだ。
今自分が大学生なら自分に言いたい。
もっと大学で勉強せい、と。きっと金なんかどうにでもなった。親戚に借りまくってもよかった。
そんなわたしにも救いはあって、それは昭和の娯楽の中心・テレビが家になかったため、保育園の頃から本を読み始めたこと。近くの小さい図書館分館の本は大人の専門的な本(そんなのほとんどなかったが)以外ほとんど読んだし、日曜日に一家で行くところといえば市の中央図書館と決まっていた。
今でも本は読むが、同じ本を若い時と40代で読んでも、感受性がちがうから、その本が自分の中まで入ってこなくなる。40代になるといろんな経験や感情が邪魔してしまう。
つまり、生徒たちに伝えたいのは 若い時にしかできないことがあるってこと。
大学で本を読み、語学の勉強をする。友人を作る、旅行をする。
やってみようと思うことは何でも若いうちにやることをわたしはすすめる。
アルバイトするなとは言わない。君たちが働く時給1000円で、本が買える。
本を読んで世界を広げよ。
働くのは、大人になったらいつでもできる。
いや、大人になったら働くことしかできないのだから。
Amazonアウトレットで本を買うのが気に入ってしまった
大学生や英語講師をやっていると、本を買う機会が増えます。
新品を買っていると本代がばかになりません。
そこで最近わたしは、Amazonのアウトレット本を積極的に購入することにしました。
アウトレット本というのは古本とは違って、(どうやら)返品された本や、刷が古い本、箱やカバーに傷のある本のことのようです。
値段はものによりますが、新品の7割以下が多い印象です。
「メインメニュー」>「カテゴリ」>「本・コミック・雑誌」から選択できます。
ほしい本を選ぶと、「詳細」から実際の本の状態を確認することができます。
1冊ごとに本のコンディションが説明されています。
カバーに大きな損傷ってどんな!? と思いますが、これまで20冊近く買ってみたところ、一律の基準はないようです。ほとんど新品と変わらないようなものから、背の部分がぐしゃっとなったようなものまで、いろいろ来ます。
要するに、「大きな」「中程度の」「小さな」などの表現はあくまで相対的な問題であって、そこまでアテにはできないということ。
新品同様なのが来れば得したような気がするし、表紙やページが折れていたりしても安いんだしまあいいか、って思えるような人なら、買い物ついでにギャンブル的要素を楽しめると思うのでおすすめです。
「そこがヘンだよ日本人の英語」系の語学書におもうこと
書店で参考書をチェックしがてら英会話の棚を見ていると、
「ネイティブはそんな言い方はしない」「日本人のこういう言い方がネイティブにはヘンに聞こえるよ」的なタイトルの書籍が多いのに驚く。
確かにこうしたタイトル付けはうまいな、と思う。
人からどう見られるか、を気にする日本人ならば、気になるタイトルにちがいない。
間違っていたり古かったり、ネイティブが聞いて明らかにヘンだと思うような表現を一所懸命覚えるよりはいいだろうし、中級者上級者であれば得るものは大きそうだ。
だが、これから外国人とコミュニケーションを始めようという人にとっては、ネイティブにどう思われるかなんて考え出したら、英語をしゃべること自体が億劫にならないだろうか。
わたしは、世界50カ国を旅行した身として、
「そんなの気にしないでとりあえず話してみなよ」
と言いたい。
ブロークンイングリッシュでいいわけじゃもちろんないけど、学会発表でもない限り
だれも気にしちゃいないから。
通じないことはあっても、だれも気にしちゃいない。
世界中に英語ネイティブは4億人くらい、それ以外の英語話者は非ネイティブなわけで。そもそもほとんどの人は、コミュニケーションのために英会話やってるんだよね?
コミュニケーションというのは文法的表現的に正確な言語だけによるものではないし、そもそもそんなことは不可能だし。
まあ上手な表現ができればそれに越したことはないし、日々学んでいく姿勢は大切だけど、「こんな言い方したらネイティブに笑われるかも」と思っていつまでもコミュニケーションできなかったらもったいない。
それに、日本語ネイティブであるあなたは、外国人が日本語で完璧じゃない表現で話しかけてきたら、いちいち「うわぁ、そんな言い方しないわ」と思うだろうか。
思わないでしょ?
「こう言うのが正しい」とは思うかもしれないが、そういうのを集めた本なんです、冒頭の話は。
連日趣味丸出しで恐縮だが、
わたしの敬愛する作家三島由紀夫が『レター教室』(1966)の中で、日本人が英文の手紙を書くコツの部分で、英語の先生から生徒への手紙に次のように書いている。
日本人は、あんまり物事をまじめに真剣に考えて、そのうえお体裁屋ですから、「立派な英文の返事を書かなくては」とか「何とか恥をかかない方法はないものだろうか」などとコチコチになって考えているうちに、つい返事を書くチャンスを逸してしまい、返事がのびればのびるほど、しきいが高くなって、ついにはつきあいをあきらめてしまうことが多い。
めんどうなら二、三行でいいのです。
「今、台所でお芋が煮えるのを待つあいだ、いそいでこのお返事を書いています。あなたのお手紙はうれしくて何度も何度も読み返しました。私は台所の囚人です。(中略)」
これをあなたの勝手放題な英語でひとつ書いてごらんなさい。
これがうまく書けたら、実にチャーミングな手紙になることうけあいです。
この本が世に出て50余年が過ぎたが、わたしはこの先生の言うことを支持します。
あ、わたしは予備校の英作文やライティングの授業では誰より厳しくしてますよ。英作文・ライティングの鬼、といえばわたしのことです。
別れ際って大事だとおもうの
別れる時には つめたく別れて 心が残るから・・・
これはわたしが小学生の時分から愛してやまない歌姫である中島みゆきさんの、『つめたい別れ』の冒頭です。
彼女がこのように歌うのは、彼女の歌に出てくる男たちがみな、別れ際に優しく振る舞うからですが・・・
先日携帯電話会社を替えたとき、この歌詞を思い出しました。
それまで優しかった携帯電話会社が、わたしが転出すると知るや掌を返したようにつめたくなったんです。悲しかった・・・
わたしは携帯電話の回線を複数持っていて、会社もよく替えます。
どの会社も受け入れるときは一様に歓迎しますが、去っていく人間を送り出す様はそれぞれです。
わたしが解約したら会社が傾くほどの大口顧客でもないわけだし、今後も見込み客であることに変わりないのに、どうしてつめたく別れることができるのでしょう。
爽やかに送り出してくれたところには、浮気してもまた戻ることだってあるでしょうに。
第一印象が大事、と世の中よく言いますが、別れ際も同じくらい、いやそれ以上に大事だと、わたしは思います。
慶友会に入会したがいろいろ間違っていた話
慶應通信で効率よくレポートや試験をこなそうと思うなら、慶友会に入るのがよいらしい。
そう聞いたので、入学後ある慶友会に気軽に入会した。
しかし、本来はいくつかの慶友会に連絡をとり、例会を見学させていただいて、雰囲気をつかんでから入会すべきだった。
母校A大でインカレサークルを決めるときだっていくつも回ったのに。
会費だってタダじゃないのに。
慶友会ならどれもそんなに変わらないはずと、なぜ思ったのか。まあ他を見ていない現状では、なんとも言えないけれど。
入会した慶友会にはいろいろな情報をいただき、感謝している。
みな親切だし、慶友会のあるべき姿がそこにあるんだろう。
しかし、入ってまもなく既視感に似たものを覚えた。「これはあのSNSコミュニティだ」とわたしは思った。会の存在や中心の方々のあり方が、伝統あるあのSNSコミュニティの全盛期からそのまま抜け出てきたような団体だったのである。
そのSNSと既視感だったらどうだっていうのサ? となるのはおいといて、今日の教訓としては
「慶友会はサークルと同じ・いくつか見学してから入るべし!」
英語講師が国語を教えてはいけない
受験国語を教えていた過去
わたしはふだん予備校で大学受験生に英語を教えていますが、以前所属していた別の塾では国語の講師が足りなくて、中学受験生の国語も教えていました。
中学受験などしたこともなく、高校も公立だったのに、国語なら日本語だし大丈夫だよ!と言われて夏休みだけ引き受けたつもりがそのままズルズルと・・・
教える前に自分で受験用の問題集を買ってきて勉強したし、授業の前には予習して(もちろん答えも書き写して)おきました。
しかし! 中学受験の国語ってどうしてあんなに難しいんでしょう。
問題文は普通の小説とか随筆とか説明文だから難しくはないけど、設問で聞かれていることがわけがわからない。
漢字や四字熟語、ことわざなどの知識を覚えるのと、段落の読み方なんかの解き方テクニック的なことを教える以外はもう、数をこなしてもらうしかありませんでした。
中学受験国語は昭和で勝負
ところでそんな黒羊先生にも、ピチピチの大学生の先生と比べて得意な部分がありました。
どの私立中学校の問題文にもなぜか昭和の事物がこれでもかと登場するんです。「受話器」「ダイヤル」「(バスの)回数券」「LP盤」とか、公序良俗に反しない限りありとあらゆる昭和のモノが登場します。受話器もバスの回数券も今でもあるけど、こういう事物について実際使っていた立場から説明できます。
昭和と平成、令和の長さを考えたら当然昭和に書かれた書物が多いし、何より出題する先生の年齢や志向を考えたら昭和の書物から出題ってことになるのかもしれません。
中学を受験するあなた、させたいあなた、小学生の早いうちから本を読み、映画を見て、昭和の事物に親しみましょう。
手書きがワープロで、ワープロが手書きで
レポートの最後に待っていた試練
慶應通信に入って半年近く経ち、ようやく1本目のレポートを先日提出しました。
図書館を回っていろいろ調べたり、家に帰ってからではだらけるからと仕事帰りに安いサ店で資料を広げてみたり、・・・そうして4000字書き上がったときの安堵と感動ときたら!
・・・しかし本当の試練はいつも極限的状況から始まるものですよね。
レポート課題にこう書いてあるんです。「ワープロ<不可>」と。
つまり手書き。4000文字を手書きで。
ワープロ<可>の科目もあります。でも今回は不可でした。
覚悟を決めて書き始めたものの、腱鞘炎になりかけたり、書き間違いが増えて休んだりしたため、4000字書くのに8時間以上かかりました。
なつかしのワープロ
ところで、わたしの母校某女子大(以下A大)では普段のレポートは手書きだったものの、卒論だけはワープロで打つことになっていたため、当時普及していた東芝のワープロ「ルポ」を家から借りてきて使ったことを思い出しました。
東芝「ルポ」とは・・・
なつかしい!インクリボンを入れて、1行ずつ印字するやつです。打ち間違えても大丈夫。消しゴムみたいな機構があって、1字ずつ消してくれるすごい機械でした。
うちにあったのは液晶がモノクロのやつ。学内にはシャープ「書院」派と東芝「ルポ」派がいましたね。
面白いなと思ったのは、20年以上前にA大で卒論を書いたときには手書きしてからワープロで清書する「手書き」→「ワープロ」の順だったのに対して、令和の今はPCで書いたものを原稿用紙に書き写す「ワープロ」→「手書き」の順だっていうこと。
慶應通信のレポートが手書き指定なのは、古典だとか文学だとかっていう研究の内容が、ワープロなんて現代の便利なものと相容れないっていう先生からのメッセージなのかな、というのがわたしの中での今のところの結論です。