90年代の「ウーマンリブ」とジェンダー表現の変化
ジェンダー関連の言葉の話題を最近とくによく見るようになった。
身近なものでは東京ディズニーリゾートで客への呼びかけ方法を男女別のものから全員一緒にするよう変えたり、子育て雑誌が父、母の役割を意識させないよう呼び方を改めたり、といったものがある。
たまひよ、「主人」「旦那」やめた TDL園内放送も…(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース
まずは言葉から変えていこう、ということなのだろう。
国際社会を含む社会の変化に対応しようとすることはよいことだと思うし
多様な価値観を提供することもメディアや公的機関の役割であろう。
ここで思い出されるのが、またも母校A大学である。
そこは以前90年代の「学生運動家」たちのことにも書いたように、学生自治会が■■派の魔窟と化していたのだが、
教える側には「ウーマンリブ」が全盛だった。
ウーマンリブとは表現が古いが、そこに展開していたのはまさにウーマンリブ活動だった。
英語の講義を担当するのはA大英文科院卒の女性講師が多かった。彼女らは一様にウーマンリブに染まっていて、英語のリーダーの際などにジェンダー的に気に入らない記述があると攻撃を始めたり、何かにつけて「私は夫のことを"主人"とは呼びません!」と自説を展開したりした。わたしがA大学のリーダーで覚えていることといったら上記のセリフだけである。
男性講師含む他の講師もウーマンリブに毒されているので、英語以外の講義もウーマンリブ的視点は基本である。
だから他大学から招聘した教授たちの講義は、純粋に聴くことができてほっとした(学生運動家の襲来はあったが)。
そのような経験から思うことは、どのように考えても行動してもよいけれど、他人に押し付けてはならないな、ということ。
冒頭の呼び方の変更にしたって、所詮は作り手の価値観であって、絶対ではない。
みな模索しながら、社会的常識だと彼らが考えている枠を超えないよう腐心している。
その変化を見たわたしたちは、自らの価値観について考える契機とすればよいのだ。