晴海埠頭と中国への船旅
晴海埠頭客船ターミナルが2022年2月で営業終了するという。
「晴海客船ターミナル」なぜ閉鎖? 30年の歴史に幕 “東京の海の玄関口”のはずが(乗りものニュース) - Yahoo!ニュース
ここはわたしにとって特別な場所だ。18歳のときはじめて、面接や小論文試験を経て自分でつかんだ権利で日本を離れた場所なのだ。
できたばかりのこの埠頭から、400人の同じ高校生たちと大型客船に乗って中国へ向かった。中国と東京都の間で当時毎年行われていた日中友好事業で、教育の一環でもあった。
客船は豪華だったが、東京都側の資金は都税で賄われていたから贅沢は許されず、高校生の客室は男子が地下1階、女子が地下2階の2段ベッドの6人部屋だった。
しかし豪華な客船の地下には鉄パイプのベッドの部屋がたくさんあるんだということを知ったことは今考えれば大きい。船には写真に載らない部屋が存在して、その部屋に出入りできたことはひとつ経験である。
晴海埠頭の話に戻ると、400人の高校生と引率教員たちが船上に控えいよいよ出航となった。よく晴れた日で、おそらくははじめて海外に出るであろう高校生ひとりにつき両親や祖父母ら複数が見送りに訪れ、埠頭は埋め尽くされていた。
今でこそ環境保護の観点からやらないが、当時は船上の旅人と埠頭の見送り人とで色とりどりの紙のリボンを持ち合い、船の離岸に伴ってそれを伸ばしていくというお決まりの儀式もあり、壮観だった。
そしてみな手を振る。だれに? わたしには見送り人がいなかった。しかし振らないのもおかしな話だと、そのときは思ったのでターミナルの建物に手を振った。そのターミナルがなくなるというのだ。
※おまけ
この中国旅行でいちばん驚いたことは、帰りの船で書いた「旅の感想文」が活字化されたものを見たときだ。
故宮を訪れ、歴代皇帝に思いを馳せたときのことをわたしは確かに「広いといってもやっぱり狭い紫禁城のなかで・・・」と書いたのだが、いかなる政治的意図が働いてか「広い紫禁城のなかで・・・」と直されていたのである。
90年代の「ウーマンリブ」とジェンダー表現の変化
ジェンダー関連の言葉の話題を最近とくによく見るようになった。
身近なものでは東京ディズニーリゾートで客への呼びかけ方法を男女別のものから全員一緒にするよう変えたり、子育て雑誌が父、母の役割を意識させないよう呼び方を改めたり、といったものがある。
たまひよ、「主人」「旦那」やめた TDL園内放送も…(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース
まずは言葉から変えていこう、ということなのだろう。
国際社会を含む社会の変化に対応しようとすることはよいことだと思うし
多様な価値観を提供することもメディアや公的機関の役割であろう。
ここで思い出されるのが、またも母校A大学である。
そこは以前90年代の「学生運動家」たちのことにも書いたように、学生自治会が■■派の魔窟と化していたのだが、
教える側には「ウーマンリブ」が全盛だった。
ウーマンリブとは表現が古いが、そこに展開していたのはまさにウーマンリブ活動だった。
英語の講義を担当するのはA大英文科院卒の女性講師が多かった。彼女らは一様にウーマンリブに染まっていて、英語のリーダーの際などにジェンダー的に気に入らない記述があると攻撃を始めたり、何かにつけて「私は夫のことを"主人"とは呼びません!」と自説を展開したりした。わたしがA大学のリーダーで覚えていることといったら上記のセリフだけである。
男性講師含む他の講師もウーマンリブに毒されているので、英語以外の講義もウーマンリブ的視点は基本である。
だから他大学から招聘した教授たちの講義は、純粋に聴くことができてほっとした(学生運動家の襲来はあったが)。
そのような経験から思うことは、どのように考えても行動してもよいけれど、他人に押し付けてはならないな、ということ。
冒頭の呼び方の変更にしたって、所詮は作り手の価値観であって、絶対ではない。
みな模索しながら、社会的常識だと彼らが考えている枠を超えないよう腐心している。
その変化を見たわたしたちは、自らの価値観について考える契機とすればよいのだ。
ついにチェルノブイリを見に行った話(2)
先日の「ついにチェルノブイリを見に行った話(1)」に引き続き、チェルノブイリ廃墟探索の話を。
その日はバスが2台やってきて、それぞれにガイドがつき、別々のツアーとして開催されました。
わたしのバスは2台目で、一緒になった20代のヨーロッパ人男女たちはみな一様に身軽で、気軽で、楽しげな様子。服装や靴も簡易な街歩き用です。
それもそのはずで、彼らは、彼氏彼女との比較的近場での海外旅行、大学生仲間での卒業前の旅行などでウクライナを訪れた若者たちで、インターネットで見てみたらキエフから行かれる手軽なエクスカーションとしてチェルノブイリ見学1日ツアーというのがあったから来てみた、というとっても軽いノリだったのです。
ちなみにヨーロッパ人にとってウクライナという国は、各国からLCCが就航していて、物価が安くて近い、ちょっと旅行に行くのにいい国らしいです。
ところでわたしが事前に調べた限りでは、原発事故で漏れた放射能はまだ残っているから、プリピャチ市内や原発敷地内では舗装された道しか歩いてはいけない、特に草の上や、土の上を歩いてはならないとのことだったので、ブーツは必要かなと考えました。
しかし帰った後に処分することになるかもしれないのであまり高いものも・・・ということでワークマンでブーツ型安全靴2980円を購入して行ったところ、結果的にはこれが大正解。アウシュビッツでも小雨が降ってぐちゃぐちゃになったし、チェルノブイリでも(廃墟に夢中になって注意事項を忘れ)放射能を含んだ土や草の上を散々歩くことになったからです。
放射能といえば、放射線量を計るための「ガイガーカウンター」をツアー会社から有料で借りることができます。購入も可能。
しかしわたしたちのグループでは、わたしを含め誰も放射線の量に興味がなかったので、ガイガーカウンターを借りている人はいませんでした。まあ記録するために来たわけではないので、それも当然ではありました。ガイドさんは持っていましたが。
そんなこんなで、ガイドさんに従って見どころを回っていきます。続きはまた。
プリピャチ市内の林の中を進んでいきます。
元原発従業員が住んでいた住宅の扉の内側には
35年前に時が止まったままの部屋
永久脱毛は医療用レーザーで
最近ではあえて体毛を生えたままにしておくモデルもいるとのことで、いろいろな人がいたほうが楽しいと考えるわたしには歓迎な風潮です。
マドンナの娘ローデス・レオンさんも剃っていないとか
マドンナさんの娘ローデス・レオンさん、わき毛を剃らずマーク・ジェイコブスの広告に登場。ポリシー貫く | ハフポスト
特段毛に目がいかないほど自然で美しいですね。
ところでわたしはだいぶ前に脇の永久脱毛をいたしました。
友人たちがみんな脱毛してて、勧められたんです。
当時もエステと皮膚科(病院)が選べましたが、皮膚科で扱うレーザーのほうが出力が高いため効果がある、とのことで、近所の病院内の皮膚科に行きました。
1回両脇8,000円で、覚えてないですけど全部で5,6回行ったかな?
それきり不毛の地となりました。
エステ脱毛のほうが広告での見た目は安いように見えますが、強いレーザーで焼いたほうが二度と生えてこなくなるので、結局皮膚科のほうが安いです。
大して痛くもないです。わたしの行った病院は脱毛に来る人があまりいないのか、脱毛後の冷却材がケーキ用の冷却材1コだったので、冷却不足感が否めませんでしたがなんとかなりました。
そういうわけで、総合的に考えて絶対皮膚科をお勧めします。
「何も買わないのが一番オトクなんだよ」
15年前まで、わたしは都心に勤めるOLでした。
仕事が終われば同僚や先輩と街に繰り出して、洒落たレストランに行ったり、服を見に行ったりしました。
セール期間ともなると、お得な品を求める楽しみがいや増しに増していきます。セールで買うのが最も賢い買い方だと信じていました。
しかしある日、ほとんど物欲のない同居人に、「何も買わないのが一番オトクなんだよ」と言われて価値観が一変しました。
同居人はさらに「売れ残った/売りたいのには理由がある」と言って、その理由を分析します。
わたしの浪費癖は変わりませんが、それからは安くなっているからという理由だけでものを買うことが少なくなり、本当にほしいかどうか考えるようになりました。
90年代の「学生運動家」たちのこと
20年以上前の話で恐縮だが、わたしの母校(以下A大)にいた学生運動家について書いてみたい。
入学すると、学生は全員「自治会費」なるものを徴収されて自治会員となるのだが、これは8000円であったと記憶している。
自治会の中心メンバーは「学生運動」に身を捧げるため留年年度いっぱいまで卒業せずに在学している学生や、数人の現役学生からなっていた。
彼らはプレハブ小屋に籠もり、模造紙で扇情的な言葉を並べたポスターを作って階段の踊り場に貼ったり、わら半紙で大量のビラを作ったりしていた。
それだけならさして実害はないが、迷惑だったのが、講義の前にマイクとビラを携えて講堂や教室に現れ、ビラを配り、集会やデモへの参加を呼びかけ、当時起こっていた政治問題・社会問題について扇情的に学生に語りかけたことだ。
わたしはビラを突き返していたが、わたしだけでなく誰にも必要なかったのでみな教室を去るとき放置し、教室の床は常にビラでいっぱいだった。そんな大学だと知っていたら行かなかった。
1990年代半ばである。全共闘時代の話ではない。政治関連の学部もない大学で、正直誰が彼らの話に興味を持っただろうか。人を引きつけるような話術があるわけでもない。大学は平和そのもので、世の中に一丸となって戦うべき事件があるわけでもなかった。
要するに、彼らは何かに突き動かされて学生運動をしていたのではなく、学生運動のために学生運動をしていたのだ。それはそれなりに彼らには意味があったのだろうけど、自治会費8000円が模造紙やわら半紙やおそらく上納金に消えたと思うと、何もわからないうちに払わされたことに腹が立ってならない。
数年前、卒業して初めて学園祭に行ってみた。あのプレハブ小屋はなくなっていたが、学生運動は続いているのだろうか。たまに思い出すことがある。彼らのことだけで卒論一本書けそうな、あの異様な集団のことを。ヘルメットを被って警察隊とぶつかったりする、学生運動のリーダーなのだ、きっと彼らの中で彼らはいつでも。
似たような記事は→90年代の「ウーマンリブ」とジェンダー表現の変化
ついにチェルノブイリを見に行った話(1)
最初に断っておかなければなりませんが、わたしがチェルノブイリに行ったのは、廃墟マニア(というより執着者)だからです。
ここで何が起こったかを考えれば不謹慎とも思いますが、行く目的はいろいろです(それは、後で書きますがわたしがチェルノブイリツアーで一緒になった若者たちを見ても明らかです)。
原発事故については、日本で十分学んでから行きました。チェルノブイリ原発事故や福島原発事故、それから世界で起こった他の原子力関連の事故、原発そのものについても詳細に調べました。
何も知らないで行っても何も感じないですし、得るものもありません。廃墟を見るなら、廃墟化の原因と過程を知っておく必要があります。
それに現地ツアーは英語で行われるので、事前に勉強しておかないと注意事項くらいしか聞き取れないおそれがありました。
さて2020年初頭、新型コロナ騒ぎのなか単身出発しました。
最初に行ったのはポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所。
ここも同様の動機で行ったのですが、詳細は別の機会に。
隣国ウクライナへと渡り、いよいよ実感が湧いてきます。
チェルノブイリには個人で行くことはできません。わたしは首都キエフから現地ツアーで行きました。
ツアー会社はいろいろありましたが、出発前に検討を重ね、こちらに決めました。
Chernobyl Tours 2021 by SoloEast, Breathtaking Trips by the Creator
SoloEast社の1日ツアーです。本当は1泊2日ツアーにしたかったのですが、行きの航空券の日程を間違えてしまい、泣く泣く次回に回すことにしました。1泊2日ともなるとチェルノブイリの近くに宿泊し、もっとたくさんの場所を回ることができます。
このツアー会社はサイトがわかりやすく、集合場所も迷うことはありませんでした(目立つマックの前だからです)。書いてあることに偽りもありません。何かわからなければ、英語対応ですがメールや電話ですぐ連絡がとれます。
1つだけ大問題があったとしたら、わたしたちのグループの公式ガイドさんの英語がとっても独特だったこと。最近チェルノブイリツアーが人気とのことで、ガイドが足りないのかもしれません。
とにもかくにも、わたし以外は全員20代前半と思しきヨーロッパ人の男女10人くらいを載せてツアーバスは出発しました。続きはまた。
どんよりとした曇り空という最高の天気の下、チェルノブイリ原発への最初の検問を抜けます。
原発従業員の住宅。
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